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個人で作成したオリエンテーリングマップたち

O-mapで学ぶ #1 牧野本通編

「O-mapで学ぶ」

新企画「O-mapで学ぶ」シリーズの記念すべき第一弾。

O-mapにはある一定に基準の元に、その土地の特徴が細かく描写されている。その点をなにかオリエンテーリング以外の側面で活用できないかという思いから生まれたのがこの企画。

地形、寺社、池や水路などぱっと眺めるだけでもいろんな情報をO-mapから読み取ることができる。そういったことをテレインごとに、より広く、そして深く掘り下げていきたい

また、土地のあれこれを知れば、そこでのオリエンテーリングもっと面白くなるに違いない。そんなO-mapやテレインのもっと多角的な楽しみ方をぜひ知って頂きたい。

ちなみにここで言うO-mapとは市街地スプリントマップのことで、このシリーズでは基本的に私自身の作成したO-mapを題材としていく。

 

最初のテレインはやはりここ、牧野本通。私の初作でもあり、これまでに数多く使用されてきた実績もあるから。

では早速「O-mapで学ぶ #1 牧野本通編」スタート!!

 

 

O-mapで学ぶ #1 牧野本通編

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牧野本通~笈瀬川と米野川の流れ~

まずテレインの基本情報から。

所在地 愛知県名古屋市中村区

縮尺 1:4000

等高線間隔 2m

 名古屋駅から500m程度という近さにありながら、古くからの家々が多く残るエリア。その抜群のアクセスゆえ、使い勝手のよいテレインである。

 

w-taishido.hateblo.jp

 

目次

 

 

地形

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地形情報のみをピックアップ

お分かりだろうか。このテレイン、等高線が1本もないのである。

ここは濃尾平野、ど真ん中。テレインを有する中村区は市の西部に位置し、全域に沖積低地の広がるめちゃくちゃ平らな地形。海抜は1.5m程しかない。

沖積層とよばれる軟弱な地層からできており、庄内川や古くは木曽川が運んだ砂が、熱田層やさらに古い地層群の上に広く堆積しているのだ。

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土質工学会中部支部編著「名古屋地域地質断面図集」より、筆者加筆

 

 

土地利用

住宅密集地である。ただの住宅街というわけではなく、商工業も盛んである。国土交通省の定める「地震時等において大規模な火災の可能性があり重点的に改善すべき密集市街地」にも指定されている、住宅密度の高いエリア。

 

 

交通

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テレイン内に所在の鉄道駅

中村区役所駅 名古屋市営地下鉄桜通線

2022(令和4)年の中村区役所移転に伴い改称が予定されている。予想は「太閤通駅」。

米野駅 近畿日本鉄道(近鉄)名古屋線

 

 

テレイン内にかつて存在した村(集落)

牧野村

米野村

 

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O-mapに明治後期の旧版地図を重ねた

道が複雑なエリアや区画整理がなされていないところの多くは、昔からの集落があった場所であることがほとんど。牧野本通でも例に漏れず、テレイン内に3つの集落が存在していた。O-mapと比べても、古い道がそのままの形で現代まで残っているのが読み取れるだろう。

牧野村

柳街道(牧野本通)が東西に通り、笈瀬川が南北に流れる。農業が主であるが、畳表や裏筵を織り余業とした。街道沿いには小さな商店や茶店があった。村域はテレインの東や北にさらに広がっている。

米野村

上ノ切と呼ばれた上米野と下ノ切と呼ばれた下米野に分かれ、中央に米野井筋が、また東側には笈瀬川が流れていた。農業の盛んなところであったが、畳表や茣蓙作りをしてそのたすけとした。また、往昔は中村から米野村を通り北一色へと鎌倉街道が通っていた(地図南西をななめに横切る道がその名残)。筧さんが多いから意識して見てみて欲しい。

 

両村の変遷は以下の通り。

1878(明治11)年 愛知郡が発足し、愛知郡牧野村、愛知郡米野村となる。

1889(明治22)年 合併し、平野村・露橋村・日置村・北一色村とともに愛知郡笈瀬村となる。(画像の地図はこの頃のもの)

1904(明治37)年 町制を施行し、愛知郡愛知町となる。

1921(大正10)年 名古屋市に併合され、名古屋市中区となる。

1937(昭和12)年 区域の再編が行われ、新たに創設された中村区編入される。

 

 

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街道と幹線道路

牧野本通

柳街道というのが道の正式な名前で、牧野本通は主に牧野村を通過するあたりでの呼称である。地元では現在もこう呼ばれている。曲がりくねった線形がいかにも街道というような感じである。古い建物も多く残っているが、近年、取り壊しや建て替えが目立つように思う。

柳街道とは、名古屋城下から佐屋街道までを短絡で結んだ脇街道である。太閤通り1本南の明治橋のあったガードから、牧野村、米野村、高須賀村を経由して烏森で佐屋街道に合流する一里半の道であった。

名古屋城築城とともに開かれた道である。江戸時代、田畑の間を縫うようにして通じており、「画誌卯之花笠」によれば両側に松並木が続く立派な街道であったという。

そしてもちろん、この道がテレイン名の由来となっていることは言うまでもない。

(参考 名古屋の街道をゆく/堀川文化を伝える会)

 

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柳街道ルート図

 

太閤通

愛知県道68号名古屋津島線の一部で、名称は当地が豊臣秀吉ゆかりの地であることに由来する。この道を東に進むと広小路通となり、今池覚王山東山公園など市内各所に通ずる。さらに東進すると愛・地球博記念公園へ至る道である。

 

環状線

名古屋市道名古屋環状線の一部で、この区間黄金(こがね)通と呼ばれている。数年前まで正式名称が「おうごん」通だったが、実態に合わせて改められた。

 

 

 

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テレイン内に存在していた水の流れ

笈瀬川

西区児玉あたりを水源に、流域の悪水を集め幅を広げつつ南流。押切、名古屋駅の北を横過して中村区に入り、則武、牧野を過ぎ、露橋に至り、さらに南下して中川区四女子、篠原等を経、名古屋港に注いでいた川。名古屋城築城の際に石垣に使う石の輸送に使われたとされる。

下流部は中川と呼ばれ、大正から昭和初期にかけて中川運河として整備されたため、現存せず痕跡もない。テレイン内を含む上流部は暗渠化され、現在は下水道幹線として使用されている。

 

米野井筋

庄内用水の流れの1つ。日比津村で本流より分かれ、大秋村・中島村・米野村を経て、露橋村で笈瀬川へ流入していた。流域はしだいに宅地化が進み、1950(昭和25)年ごろまでに埋め立てられたと考えられる。

水産問屋と記した位置には淡水魚を扱う卸のお店(山モ名古屋淡水魚介㈱)があったが、数年前に廃業してしまった。川沿いだからこそ興った商売であり、ここに米野井筋が流れていたということの何よりの生き証人であった。

 

 

寺社

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神社と主な寺

神社

厳島神社

椿神明社境外末社。1747(延享4)年当地に鎮座された。牧野三所社のひとつ。

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熊野社

1712(正徳2)年の創建。米野公園の北東の一角にある。

玉龍

創建年不明。白玉龍というのはなかなか珍しいらしい。大きな木が目印で、O-mapにも独立樹として表記。

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金山神社

石工たちが祀った神といわれているが、創建年は不明。1927(昭和2)、境内が鉄道用地となるために現在地に移転。

 

長松寺

臨済宗妙心寺派山号は慈峰山、本尊観世音菩薩。1605(慶長10)年に草創。

円福寺

真宗大谷派山号は荒井山、本尊阿弥陀如来立像。1578(天正6)年、北一色村(現在の中川区愛知町)善行寺の二世海善が米野村へ隠居して一宇を創建したのに始まる。海善は織田信長とも親族であった。

 (参考 中村区の歴史/横地清)

 

 

公園

テレイン内の公園並びにどんぐり広場は以下の通り。

米野公園

牧野公園

牧野南公園

上米野公園

牧九どんぐり広場

平池どんぐり広場

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O-mapから簡単に見つけられる公園

ついに形になった・米野公園

この場所は元々、大正時代の耕地整理によって整備された古い住宅密集地だった。米野公園として整備する都市計画決定が1947(昭和22)年に既に行われたものの長年放置され、1998(平成10)年に至ってようやく着手。2011(平成23)年頃から本格的な公園整備が始まった。

着手時、区域のほとんどが民有地で、建物が156戸、162世帯が居住する状態であった。なお、計画区域内には既に茶ノ木島公園があり、これは現在の熊野社西隣の一角にあたる。

ちなみに現在でも公園は未完成で、整備は今後も続いていく。O-mapからも公園区域内に取り残されたように残る家屋や道を読み取ることができる。最後の1軒は所有者が分からないために取り壊せない状態らしく、公園の完成にはまだ時間がかかりそうである。

公園北東部には先述の熊野社が位置する。

米野公園は防災公園という位置づけで、昭和区の川名公園も同時期に同じ目的で整備された。園内には災害用のかまどベンチ、トイレ、井戸などが設置されている。南海トラフ地震等の今後起こりうる災害時には、近隣住民のみならず、名古屋駅周辺で発生する大量の帰宅困難者も受け入れる想定がされているらしい。

どんぐり広場とは

1967(昭和42)年、戦後復興の区画整理でできた空き地を未就学児の遊び場として活用しようと、名古屋市が独自に始めた。30平方メートルから設置でき、民有地を市に提供し、そこに市が鉄棒、砂場、ベンチなどを整備するという仕組み。黄色い柵でお馴染み。

テレイン内には2ヶ所存在し、その名称にはどちらも旧町名が採用されている。(牧九:牧野町9丁目、平池:平池町)

 

 

教育

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福田兼助碑

智興寺前に建つ、福田兼助(かねすけ)への敬愛の念を示すための石碑。かつての門人・知人・友人達によって1901(明治34)年に建立。福田兼助は名古屋西地区近代教育の祖といわれた人物で、米野村の農家の出であったが学問を好み、徳川時代末期に村の子どもたちの教育に尽くした。米野村には3ヶ所の寺子屋があった。明治になり学制が敷かれてからは望まれて村校の教師となった。

O-map上では単なる記号でぽつんと描かれているにすぎないが、実はそんなところにも色んな歴史が詰まっているのである。

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中村児童館

 1974(昭和49)年11月1日の開館以来、地域の小中学生を中心に愛され続けている。こじんまりとしながらも要素の詰まった建物は必見。

米野小学校

1873(明治6年)、上米野義校、下米野義校として創立。その後分離統合や名称変更を経て、1906(明治39)年に愛知第一尋常小学校として現在地に移転した。歴史のある小学校である。

 

 

おしまい

こんな感じで「O-mapで学ぶ」シリーズの第一弾、牧野本通編を終えようと思うが、いかがだっただろうか。

たしかに、O-mapはオリエンテーリングをするためだけに作られたものだし、O-mapをオリエンテーリング以外の目的で使用するというのは、あまり有効でないようにも思われる。ただ、テレインの歴史や特色を知ることで、今まで意識してこなかった「牧野本通」の新たな魅力に気づくことができたのではないか。

そして、統一された記号で画一的に描かれているように見えるO-mapには、実はその土地のいろんな「らしさ」が隠されており、それを読み解くことこそがこの企画の醍醐味なのである。

 

 

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