O-mapで学ぶ #2 中村編
はじめに
この記事は「O-mapで学ぶ」シリーズの第二弾だ。先日アップした「O-mapで学ぶ #1 牧野本通編」はいかがだっただろうか。この企画の趣旨などはそちらの記事で詳しく触れたので、良ければご覧いただきたい。さあ早速本題へ参ろう!
O-mapで学ぶ #2 中村編
今回題材にするテレインは「中村 ~太閤懐故郷~」だ。これは「牧野本通」に続く2作目の市街地スプリントマップ。ちなみに副題の懐故郷という言葉は造語で、僕がいい感じの言葉を見つけられなかったために無理やり付けたものである。
テレインの概要は以下の通り。
所在地 愛知県名古屋市中村区
縮尺 1:4000
等高線間隔 概念がない
目次
土地利用
上の地図は、O-mapのうち、駐車場と耕作地の記号のみをピックアップしたものである。これらを視覚的に分かりやすく捉えることが可能なのはO-mapの特徴だろう。
この地図から見受けられることとしては駐車場が比較的多いということ。そして、牧野本通には全く存在しなかった耕作地が各所に点在していることだろう。これらは、このテレインが住宅密集地に位置しつつも、名駅、つまり都心からある程度の距離があるということの表れではないか。
参考に牧野本通と今回の中村のテレインの位置関係を示しておく。右上にあるのが名古屋駅である。
地形
先ほどの位置関係図からも分かる通り、牧野本通と近く、地形的特徴も似たような感じである。O-mapを見ても等高線が描かれていないのが分かる。テレイン全体に平らな低地が広がり、その海抜は2mほどである。
交通
テレイン内に存在する鉄道駅は名古屋市営地下鉄東山線の中村公園駅のみである。また、それに付随する形で名古屋市営バスの中村公園バスターミナルが設置されている。
テレイン北西の駅があるあたりは商業施設が集積しており、地域の中心地的な役割を果たすエリアである。スーパー、100円ショップ、マクドナルド、ミスタードーナツ、歌志軒など、一通りのものは揃っている。
また、駅前には赤い大鳥居がそびえ立っている。これは1929(昭和4)年、中村(「中」という名前の村)が名古屋市に併合されたのを記念して建立されたものである。高さ24m、幅34mを誇る巨大鳥居で、完成当時新聞には「日本一即ち東洋一とりもなほさず世界一の大鳥居が出来」たと紹介された。圧倒的な存在感を誇る。
村
テレイン内に存在した村(集落)は以下の通り
下中村
(江戸時代以前のあるころまでは中中村と下中村)
古墳時代には人が定住し出したと思われる、非常に古くからの村である。
鎌倉時代、鎌倉街道が開かれ村の北東を通るようになった。下中村の人々は、稲田の中を行く旅人を見ながら暮らしていたのだろう。上の明治後期の旧版地図の右上、直線的な村境が斜めに横切っているが、これが鎌倉街道の名残である。現在では跡形もない。
江戸時代以前のある頃まで村は2つに分かれており、下中村は旧中中村(なかのう)旧下中村(しも)からなる。これに対して上中村(現在の中村公園のあたり)を「かみ」と呼んでいた。
集落は庄内用水中井筋の西側を南北に広がっており、そのエリアだけ道が細いのがO-mapから読み取れる。ここは庄内川の自然堤防の上に位置している。現在その高低差はほとんど感じられないが、等高線に表れない程度に若干高くなっている。
国土地理院の陰影起伏図からはそれを読み取ることが出来る。
そして、ここ尾張中村はなんといっても豊臣秀吉の出生地ということで有名である。
また、横地さんが多いので意識して見てみて欲しい。
明治以降の村の変遷は以下の通り。
1878(明治11)年 愛知郡が発足し、愛知郡下中村となる。
1889(明治22)年 上中村、稲葉地村と合併し、愛知郡織豊村となる。村名は織田と豊臣の頭文字から付けられた。
1906(明治39)年 鷹場村、日比津村と合併し、愛知郡中村になる。中という名前の村である。
1921(大正10)年 名古屋市に編入され、名古屋市西区になる。
1937(昭和12)年 区域の再編が行われ、新たに創設された中村区に編入される。
(参照 下中村/中村歴史の会)
豊臣秀吉
室町時代後期、秀吉は中中村の弥助屋敷に生まれた。母の大政所は安産祈願のために下中八幡宮に通っていたという伝承もある。
中村公園(かつての上中村)を出生地とする説もあるが、いずれにせよ、このあたりで生まれ育ったことは確実である。
1590(天正18)年、小田原征伐の帰りに清正とともに故郷中村に立ち寄ったそうだ。薬師堂(現在の薬師寺)を参拝し、村人に大盤振舞をした。その場所はその後大盤振舞と呼ばれていたそうだ。
川
中井筋は庄内用水の流れの1つである。庄内用水は、守山区にて庄内川より取水し港区に至る総延長28kmの名古屋市内最大の農業用水である。
惣兵衛川とも呼ばれる。下中村の日吉保育園園長横地恵子氏の先祖、横地惣兵衛という人が作ったのでこう言うのだそうだ。
現在、庄内用水は日比津町で2つに分かれるが、このうち下中村、高須賀、烏森を経て南下する流れが中井筋である。中村区内では全区間が暗渠化され、テレインを通過する区間を含め地上部は中井筋緑道として整備されている。暗渠はいいぞ。
そして、特筆すべきこととして、テレイン内に中井筋からの分水の跡が残っているということがある。かつての村絵図に描かれた分水と位置が一致したので、間違いないと思われる。O-mapから読み取れるように、分水跡は住宅地に呑まれるように消えてゆく。その先を追うことは不可能だ。
道
太閤通
愛知県道68号名古屋津島線の一部で、名称は当地が豊臣秀吉ゆかりの地であることに由来する。この道を東に進むと広小路通となり、栄、本山、星ヶ丘など市内各所に通ずる。さらに東進すると愛・地球博記念公園へ至る道である。
豊国通
名称は中村公園にある豊国神社に由来。読み方は「とよくに」である。地下に名古屋市営地下鉄東山線が走る。
名古屋一宮線
名古屋と一宮を結ぶ県道190号名古屋一宮線。テレインのあたりでの名称は名西通。
社寺
神社
下中八幡宮
社伝によれば、1156(保元元)年、鎮西八郎為朝の創祀に係る古社であるとされるが、加藤清正が勧請したともされ、詳細は不明。
秀吉の母大政所が安産祈願のために通っていたという話もある。
押木田公園の東側の一角に位置する。
石神社
昔、農夫がバランスをとるために大八車に載せていた路傍の石仏を、この辺りに捨て置いていった。それを祀ったのが始まりらしい。
寺
正賢寺
真宗大谷派、山号は亀頭山、本尊阿弥陀如来立像。創建は永正年間(1504-21)である。
西光寺
真宗大谷派、山号は泰法山、本尊阿弥陀如来立像。創建年不明だが、「蓬州旧勝録」に「太閤秀吉の母堂旦那寺と民俗伝へり」とある。
(参照 下中村/中村歴史の会)
公園
テレイン内にある公園は押木田公園のみであるが、市営中村荘(団地)にも小規模な広場が2つ存在する。
押木田公園の所は元々池だった。大正の区画整理の際、土を西側に高上げしたので池になったのである。高上げされたところに、米軍空襲に備えての高射砲陣地があった。赤枠で囲った範囲である。太平洋戦争ではここをめがけて焼夷弾が落とされたそうだ。
戦後池が埋め立てられ、1949(昭和24)年に押木田公園として開園した。
娯楽
中村土地株式会社の敷地内に、1930(昭和5)年開館した。一階に大浴場・食堂・室内運動場、二階に演芸場があり、名古屋花壇と称した。まさにスーパーランドであった。1933(昭和8)年にはプールも造られた。東京の浅草や多摩川、大阪の宝塚、新世界と肩を並べることを目指したが、結果はお察し頂きたい。
喜劇役者の藤山寛美は若いころ、ここの舞台に立っていたそうだ。
1937(昭和12)年中村区が創設された際に、名古屋花壇跡の建物の一角を改装して区役所に転用した。これが初代中村区役所である。
現在はそのまとまった土地を活かし、NTT中村ビルと中村郵便局が立地している。
おしまい
こんな感じで「O-mapで学ぶ」シリーズの第二弾、中村編を終えようと思うが、いかがだっただろうか。
統一された記号で画一的に描かれているように見えるO-mapから、実は隠されているその土地々々いろんな「らしさ」を読み解いていくこの企画。今まで意識しなかった側面から、新たな「中村」の魅力に気づくことはできただろうか。
そしてなにより、このO-mapや地域について少しでも興味を抱いていただければ、秀吉も喜ぶことであろう。
O-mapで学ぶ #1 牧野本通編
「O-mapで学ぶ」
新企画「O-mapで学ぶ」シリーズの記念すべき第一弾。
O-mapにはある一定に基準の元に、その土地の特徴が細かく描写されている。その点をなにかオリエンテーリング以外の側面で活用できないかという思いから生まれたのがこの企画。
地形、寺社、池や水路などぱっと眺めるだけでもいろんな情報をO-mapから読み取ることができる。そういったことをテレインごとに、より広く、そして深く掘り下げていきたい。
また、土地のあれこれを知れば、そこでのオリエンテーリングがもっと面白くなるに違いない。そんなO-mapやテレインのもっと多角的な楽しみ方をぜひ知って頂きたい。
ちなみにここで言うO-mapとは市街地スプリントマップのことで、このシリーズでは基本的に私自身の作成したO-mapを題材としていく。
最初のテレインはやはりここ、牧野本通。私の初作でもあり、これまでに数多く使用されてきた実績もあるから。
では早速「O-mapで学ぶ #1 牧野本通編」スタート!!
O-mapで学ぶ #1 牧野本通編
まずテレインの基本情報から。
所在地 愛知県名古屋市中村区
縮尺 1:4000
等高線間隔 2m
名古屋駅から500m程度という近さにありながら、古くからの家々が多く残るエリア。その抜群のアクセスゆえ、使い勝手のよいテレインである。
目次
地形
お分かりだろうか。このテレイン、等高線が1本もないのである。
ここは濃尾平野、ど真ん中。テレインを有する中村区は市の西部に位置し、全域に沖積低地の広がるめちゃくちゃ平らな地形。海抜は1.5m程しかない。
沖積層とよばれる軟弱な地層からできており、庄内川や古くは木曽川が運んだ砂が、熱田層やさらに古い地層群の上に広く堆積しているのだ。
土地利用
住宅密集地である。ただの住宅街というわけではなく、商工業も盛んである。国土交通省の定める「地震時等において大規模な火災の可能性があり重点的に改善すべき密集市街地」にも指定されている、住宅密度の高いエリア。
交通
テレイン内に所在の鉄道駅
2022(令和4)年の中村区役所移転に伴い改称が予定されている。予想は「太閤通駅」。
村
テレイン内にかつて存在した村(集落)
牧野村
米野村
道が複雑なエリアや区画整理がなされていないところの多くは、昔からの集落があった場所であることがほとんど。牧野本通でも例に漏れず、テレイン内に3つの集落が存在していた。O-mapと比べても、古い道がそのままの形で現代まで残っているのが読み取れるだろう。
牧野村
柳街道(牧野本通)が東西に通り、笈瀬川が南北に流れる。農業が主であるが、畳表や裏筵を織り余業とした。街道沿いには小さな商店や茶店があった。村域はテレインの東や北にさらに広がっている。
米野村
上ノ切と呼ばれた上米野と下ノ切と呼ばれた下米野に分かれ、中央に米野井筋が、また東側には笈瀬川が流れていた。農業の盛んなところであったが、畳表や茣蓙作りをしてそのたすけとした。また、往昔は中村から米野村を通り北一色へと鎌倉街道が通っていた(地図南西をななめに横切る道がその名残)。筧さんが多いから意識して見てみて欲しい。
両村の変遷は以下の通り。
1878(明治11)年 愛知郡が発足し、愛知郡牧野村、愛知郡米野村となる。
1889(明治22)年 合併し、平野村・露橋村・日置村・北一色村とともに愛知郡笈瀬村となる。(画像の地図はこの頃のもの)
1904(明治37)年 町制を施行し、愛知郡愛知町となる。
1921(大正10)年 名古屋市に併合され、名古屋市中区となる。
1937(昭和12)年 区域の再編が行われ、新たに創設された中村区に編入される。
道
牧野本通
柳街道というのが道の正式な名前で、牧野本通は主に牧野村を通過するあたりでの呼称である。地元では現在もこう呼ばれている。曲がりくねった線形がいかにも街道というような感じである。古い建物も多く残っているが、近年、取り壊しや建て替えが目立つように思う。
柳街道とは、名古屋城下から佐屋街道までを短絡で結んだ脇街道である。太閤通り1本南の明治橋のあったガードから、牧野村、米野村、高須賀村を経由して烏森で佐屋街道に合流する一里半の道であった。
名古屋城築城とともに開かれた道である。江戸時代、田畑の間を縫うようにして通じており、「画誌卯之花笠」によれば両側に松並木が続く立派な街道であったという。
そしてもちろん、この道がテレイン名の由来となっていることは言うまでもない。
(参考 名古屋の街道をゆく/堀川文化を伝える会)
太閤通
愛知県道68号名古屋津島線の一部で、名称は当地が豊臣秀吉ゆかりの地であることに由来する。この道を東に進むと広小路通となり、今池、覚王山、東山公園など市内各所に通ずる。さらに東進すると愛・地球博記念公園へ至る道である。
環状線
名古屋市道名古屋環状線の一部で、この区間は黄金(こがね)通と呼ばれている。数年前まで正式名称が「おうごん」通だったが、実態に合わせて改められた。
川
笈瀬川
西区児玉あたりを水源に、流域の悪水を集め幅を広げつつ南流。押切、名古屋駅の北を横過して中村区に入り、則武、牧野を過ぎ、露橋に至り、さらに南下して中川区四女子、篠原等を経、名古屋港に注いでいた川。名古屋城築城の際に石垣に使う石の輸送に使われたとされる。
下流部は中川と呼ばれ、大正から昭和初期にかけて中川運河として整備されたため、現存せず痕跡もない。テレイン内を含む上流部は暗渠化され、現在は下水道幹線として使用されている。
米野井筋
庄内用水の流れの1つ。日比津村で本流より分かれ、大秋村・中島村・米野村を経て、露橋村で笈瀬川へ流入していた。流域はしだいに宅地化が進み、1950(昭和25)年ごろまでに埋め立てられたと考えられる。
水産問屋と記した位置には淡水魚を扱う卸のお店(山モ名古屋淡水魚介㈱)があったが、数年前に廃業してしまった。川沿いだからこそ興った商売であり、ここに米野井筋が流れていたということの何よりの生き証人であった。
寺社
神社
椿神明社境外末社。1747(延享4)年当地に鎮座された。牧野三所社のひとつ。
熊野社
1712(正徳2)年の創建。米野公園の北東の一角にある。
白玉龍神
創建年不明。白玉龍というのはなかなか珍しいらしい。大きな木が目印で、O-mapにも独立樹として表記。
石工たちが祀った神といわれているが、創建年は不明。1927(昭和2)、境内が鉄道用地となるために現在地に移転。
寺
長松寺
臨済宗妙心寺派、山号は慈峰山、本尊観世音菩薩。1605(慶長10)年に草創。
真宗大谷派、山号は荒井山、本尊阿弥陀如来立像。1578(天正6)年、北一色村(現在の中川区愛知町)善行寺の二世海善が米野村へ隠居して一宇を創建したのに始まる。海善は織田信長とも親族であった。
(参考 中村区の歴史/横地清)
公園
テレイン内の公園並びにどんぐり広場は以下の通り。
米野公園
牧野公園
牧野南公園
上米野公園
牧九どんぐり広場
平池どんぐり広場
ついに形になった・米野公園
この場所は元々、大正時代の耕地整理によって整備された古い住宅密集地だった。米野公園として整備する都市計画決定が1947(昭和22)年に既に行われたものの長年放置され、1998(平成10)年に至ってようやく着手。2011(平成23)年頃から本格的な公園整備が始まった。
着手時、区域のほとんどが民有地で、建物が156戸、162世帯が居住する状態であった。なお、計画区域内には既に茶ノ木島公園があり、これは現在の熊野社西隣の一角にあたる。
ちなみに現在でも公園は未完成で、整備は今後も続いていく。O-mapからも公園区域内に取り残されたように残る家屋や道を読み取ることができる。最後の1軒は所有者が分からないために取り壊せない状態らしく、公園の完成にはまだ時間がかかりそうである。
公園北東部には先述の熊野社が位置する。
米野公園は防災公園という位置づけで、昭和区の川名公園も同時期に同じ目的で整備された。園内には災害用のかまどベンチ、トイレ、井戸などが設置されている。南海トラフ地震等の今後起こりうる災害時には、近隣住民のみならず、名古屋駅周辺で発生する大量の帰宅困難者も受け入れる想定がされているらしい。
どんぐり広場とは
1967(昭和42)年、戦後復興の区画整理でできた空き地を未就学児の遊び場として活用しようと、名古屋市が独自に始めた。30平方メートルから設置でき、民有地を市に提供し、そこに市が鉄棒、砂場、ベンチなどを整備するという仕組み。黄色い柵でお馴染み。
テレイン内には2ヶ所存在し、その名称にはどちらも旧町名が採用されている。(牧九:牧野町9丁目、平池:平池町)
教育
福田兼助碑
智興寺前に建つ、福田兼助(かねすけ)への敬愛の念を示すための石碑。かつての門人・知人・友人達によって1901(明治34)年に建立。福田兼助は名古屋西地区近代教育の祖といわれた人物で、米野村の農家の出であったが学問を好み、徳川時代末期に村の子どもたちの教育に尽くした。米野村には3ヶ所の寺子屋があった。明治になり学制が敷かれてからは望まれて村校の教師となった。
O-map上では単なる記号でぽつんと描かれているにすぎないが、実はそんなところにも色んな歴史が詰まっているのである。
中村児童館
1974(昭和49)年11月1日の開館以来、地域の小中学生を中心に愛され続けている。こじんまりとしながらも要素の詰まった建物は必見。
米野小学校
1873(明治6年)、上米野義校、下米野義校として創立。その後分離統合や名称変更を経て、1906(明治39)年に愛知第一尋常小学校として現在地に移転した。歴史のある小学校である。
おしまい
こんな感じで「O-mapで学ぶ」シリーズの第一弾、牧野本通編を終えようと思うが、いかがだっただろうか。
たしかに、O-mapはオリエンテーリングをするためだけに作られたものだし、O-mapをオリエンテーリング以外の目的で使用するというのは、あまり有効でないようにも思われる。ただ、テレインの歴史や特色を知ることで、今まで意識してこなかった「牧野本通」の新たな魅力に気づくことができたのではないか。
そして、統一された記号で画一的に描かれているように見えるO-mapには、実はその土地のいろんな「らしさ」が隠されており、それを読み解くことこそがこの企画の醍醐味なのである。
中村 ~太閤懐故郷~
中村 ~太閤懐故郷~
Aug., 2018
愛知県名古屋市中村区
2018/08/03 第3回大先杯
2018/08/30 Sprint Training
2018/09/15 エセインカレ2018 - Sprint
2018/12/16 Sprint Training
2019/04/01 Night-O
<調査履歴>
2018/07/09 第1次調査
2018/07/27 第2次調査
2018/07/29 第3次調査
2018/08/02 第4次調査